2009年07月15日

ブルゴーニュ戦争の時代背景

ブルゴーニュ公とフランス王の間で戦われた一連の戦争。後にスイス盟約者同盟(Alte Eidgenossenschaft)も巻き込まれたが、スイスはこの戦争で決定的な役割を演じることになった。1474年に開戦し、ブルゴーニュ公シャルル突進公はナンシーの戦いで戦死した。ブルゴーニュ公の本領とその他の公領はフランスに併合されたが、ネーデルラントとフランシュ=コンテ(ブルゴーニュ自由伯領)はシャルルの娘マリーが相続し、最終的にはハプスブルク家の所領になった。

ブルゴーニュ公国はハプスブルク家とフランス王国が支配を確立するまで、およそ100年以上にわたり繁栄し続けていた。公国は本拠地のフランシュ=コンテとブルゴーニュ公領の他にフランドルやブラバント、ルクセンブルクといった経済力のある地域を所有していた。概してブルゴーニュ公は拡張政策を採り、特にアルザスとロレーヌの獲得に対して積極的で、地理的に南北に離れた領地を1つにしようと目論んでいた。百年戦争ではブルゴーニュ公はイングランド側についており、フランス王とは既に対立していた。シャルルのライン川沿いへの進出は、ハプスブルク家、特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世との争いの原因になった。

1469年に、チロル領主ジークムント(Siegmund)はシャルル突進公と共にスイスの拡大を防ぐため、アルザスにある自分の領地を抵当としてブルゴーニュ公に譲渡した。しかしシャルルのライン川西岸との関係は、ジークムントが望んだようにスイスを攻撃する動機とはならなかった。シャルルはバーゼルやストラスブール、ミュルーズなどの都市に対抗して通商の禁止を代官ペーター・フォン・ハーゲンバッハ(Peter von Hagenbach)に行なわせた。ハーゲンバッハは圧政を布いたため、ブルゴーニュに対する都市の住民の反感は強いものになり、都市はベルンに救援を求めた。シャルルの拡張戦略は1473年から1474年にかけて行なわれたケルン大司教に対する攻撃、ノイス包囲戦(Siege of Neuss)の失敗で初めて挫折した。

1474年ジークムントはスイスとの和平を画策し、コンスタンツで後に「永久協定」(Ewige Richtung)と呼ばれる協定を結んだ。その一方で、ジークムントはシャルルに譲渡した領地を買い戻そうとしたが、これは拒絶された。同年4月30日、アルザスのブリザックで反ブルゴーニュ派に捕えられたハーゲンバッハが斬首刑に処された。アルザスやスイスの都市とジークムントは結束して「対ブルゴーニュ同盟」を結び、同年11月13日エリクールの戦い(Schlacht bei Héricourt)で勝利し、フランシュ=コンテのジュラを征服した。翌1475年にはベルン軍がシャルルと同盟関係にあったサヴォイア公国のヴォー地方を征服して破壊した。ヴァレーでは1475年11月、プランタの戦い(Schlacht auf der Planta)で独立共和国ジーベン・ゼンデンが、ベルン軍や他の同盟国の助力によりサヴォイア人を低地ヴァレーから駆逐した。1476年3月、シャルルは報復のためにサヴォイアのピエール・ド・ロモンの領地グランソン(Grandson)へ進軍した。そこは同年1月にブルゴーニュ軍が攻略した際に投降したスイス兵を見せしめのために絞首刑にし、湖で溺死させた因縁の地だった。スイス同盟軍が数日後に同地に到着し、シャルルはグランソンの戦い(Battle of Grandson)で手痛い敗北を喫した。彼は戦場から逃げざるを得なくなり、大砲や多くの糧食や財宝を残して撤退した。新たに軍を再編成したが、シャルルは再びムルテンの戦い(Battle of Morat)でスイス軍に敗北した。1477年、シャルルはナンシーの戦いでロレーヌ公ルネ2世が率いるロレーヌ軍と彼に従うスイス兵と交戦し、戦死した。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

ブルゴーニュ戦争の時代背景はとても残忍でした。

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2008年05月16日

タカアシガニ

見た目はまずそうです。。

タカアシガニ(高脚蟹・学名Macrocheira kaempferi)は、十脚目・短尾下目・クモガニ科に分類されるカニ。日本近海の深海に生息する巨大なカニで、世界最大の現生節足動物である。

カニ類の中では系統的に古い種で、生きている化石とよばれる。現生のタカアシガニ属 (Macrocheira属)は1属1種だけだが、他に化石種が2種類報告されている。

全身が橙色だが、脚には白色のまだら模様が入る。脚は非常に細長いが、さらに成体のオスでは鋏脚が脚よりも長くなり、大きなオスが鋏脚を広げると3mを超える。甲羅は最大で甲幅30cm、甲長40cmほどの楕円形で、盛りあがっていて丸っこい。複眼は甲羅の前方に並び、複眼の間には斜めのとげが左右に突き出す。若い個体は甲羅に毛やとげがあり、複眼の間のとげも長いが、成熟すると毛は短くなり、とげも目立たなくなる。

日本近海の固有種と言われていたが、生息域は岩手県沖から九州までの太平洋岸で、東シナ海、駿河湾、土佐湾である。1989年に台湾の東方沖で見つかっている。水深150-800mほどの深海砂泥底に生息し(特に水深200-300mに多い)、春の産卵期には、水深50m程度の浅いところまで移動して産卵する。

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利用
大正初期の頃から底引き網漁でタカアシガニが水揚げされ見向きもされていなかったが、昭和35年に戸田村の地元旅館主人が「タカアシガニ料理」を始めたとされている。[1] 小型底引き網(トロール網)などで漁獲され、塩茹でや蒸しガニ等にして食用にされる。メスの方が美味しいという話もある。漁場は相模灘、駿河湾、土佐湾、尾鷲、伊豆七島周辺などだが、産卵期の春は禁漁となっている。特に漁が盛んな駿河湾ではタカアシガニを観光の名物にしているが、近年は漁獲が減少しているため、種苗放流など資源保護の動きもある。[2]和歌山県では産卵期の春に浅瀬に移動するものを漁獲している。

伊豆での漁法と漁期
戸田港 小型底曳き網 (9月?翌年5月15日)、田子漁港 かご (12月?翌年2月)[3]
食用の他に研究用や装飾用の剥製にもされる。また、性質はおとなしく、また飼育のし易さ、目を引く点、個体の補充しやすさから水族館などでも飼育される。
(以上、ウィキペディアより引用)

けど結構味はうまいらしいです!

2008年03月28日

旅籠(はたご)

風情ある響きです。

旅籠(はたご)とは、江戸時代、旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする家のことである。旅籠屋(はたごや)の略。

旅籠という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠(かご)のことであった。それが、旅人の食糧等を入れる器、転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋のことを旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになった。

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江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって武士や一般庶民の泊まり客で賑わった。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていった。しかし、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになった。現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかない。
混雑時には相部屋が求められ、女性の旅客は難儀をしたとされる。

旅籠の分類
規模によるもの(宿場によって異なるがだいたい間口によって区分された)
大旅籠
中旅籠
小旅籠
業態によるもの(飯盛女の有無による区分)
平旅籠
飯盛旅籠(食売旅籠ともいう)
(以上、ウィキペディアより引用)

時代を感じますよね!